備忘録 街の灯り(2006) Aki Kaurismäki

「浮雲」(1996)、「過去の無い男」(2002)に続くフィンランド・トリロジー最終作。前2作は劇場で見たが本作「街の灯り」(2006)は見逃した。初カウリスマキ映画はレニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ(1989)。当時ジャームッシュが出ているということでVHSをレンタルして見てかなり笑った記憶が。今回はレンタル落ち中古DVDがネットで安価に売り出されているのを見つけゲット。
DVD
ハリウッド映画が目指すエンターテイメントの対極にある作品。本作はアカデミー外国映画作品賞にノミネートされるも、カウリスマキはときのブッシュ政権の外交政策を非難しボイコット。作品にもアメリカが主導するグローバル経済へのアンチテーゼと受け止められるメタファーが散りばめられている。加えて1917年に独立するまでロシアの属国で共産圏下にあった前フィンランド時代を蔑むサインとして、古いロックンロールをバンドが演奏するシーンを挟んでいる(共産圏ではロックは禁止=ロックは反共の意志)。それらむき出しの「メジャー=大きいもの」に対する反骨精神がカウリスマキ映画の魅力の一つであるが、今回も例外に漏れずいかんなく発揮。プロレタリアート文学を読んでいる感触もありつつ、悲壮感よりもコミック性を凌駕させるのが監督の技量か。カウリスマキ映画はフィンランドの伝統菓子サルミアッキみたいなもので、突飛な味覚(甘草の)が強いがクセになり、また見たくなる。

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日常生活に日本人的な人情や人生の機微や哀歓を表現しようとした小津安二郎のミニマリスティックな世界を好んだといカウリスマキ。演者に無表情というペルソナを被せることで、ストーリーの中のメッセージをより鮮明に浮き彫りにさせている。ダークトーンの物語をベースとし、周囲が暗い分仄かに照らされた結末が見るものにカタルシスをもたらす演出はカウリスマキ映画の真骨頂。本作は前2作よりは炙り出される幸福感が薄いものの、絶望のさ中に微かなポジティブ要素の余韻が残る。最期のシーン「俺はここじゃ死なない」のセリフに一筋の光を見出し、カルロス・ガルデルの「想いの届く日」が流れる。良い。

最新作の「希望のかなた」は移民受け入れたフィンランドのしこりを描いたとのこと。キノで春先に一週間だけ上映されたが出張が重なって見れなかった!見たい。

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