備忘録 「チャーリー・ヘイデンとの対話」まえがき(ビル・フリーゼル)_拙訳

 チャーリー・ヘイデンが2014年に亡くなってからほどなくして”Conversation with Charlie Haden”という著作がアメリカで出版された。著者はジョセフ・ウッダード。ダウンビートの執筆陣のひとりで数々のジャズアルバムにライナーノートを書いているジャズ専門の音楽ジャーナリストだ。正確には彼の著作というよりは彼が長年記録してきたチャーリーへのインタビュー集ということで、ヘイデンとの共著と言った方が的を得ているかもしれない。日本には一定数のチャーリー・ヘイデンのファンがいると思われるが日本語訳が出される予定はなさそうだ。

 
 眺める程度に目を通したが、ビル・フリーゼルとアラン・ブロードベントが前書きを寄せており、少なくとも長年のチャーリー・ヘイデンのファンとしてはこの部分だけでも非常に面白かったので訳を付けてみた。ビル・フリーゼルの文章は体言止めや間投詞の「WOW」なる言葉を多用しており、ほぼそのまま訳出したので日本語にすると違和感がありまくりですがお付き合いください。



まえがき ビル・フリーゼル

 チャーリー・ヘイデン。チャーリーのことについて何か書いて欲しいとの依頼を受け、恐れ多くも光栄に思っている。ワオ。思い出はたくさんある。思い出そうとすればするほど、思い出に圧倒されそうになる。

 音楽。

 つながり。

 一音が次の音に、一曲がもう一曲に導かれていくようで、それはまるで美しいつづれ織りのごとく連なっている。深い。

 私はデンバーで育った。高校生の時には音楽のことで頭が爆発しそうになっていた。ダウンビート(Jazz専門誌)を初めて買ったのもその頃だ。そのダウンビートのカバーはチャールズ・ロイドだった。そのチャールズ・ロイドがデンバーの街でライブを演るということで、行ってみることにした。ピアノはキース・ジャレット、ロン・マクルーアがベース、ドラムはポール・モチアンだった。ライブ後直ぐに、自分にとって初となるジャズのアルバムを買いに行った。キース・ジャレットのSomewhere Beforeだ。キースがピアノ、ポール・モチアンがドラム、そしてチャーリー・ヘイデンがベースを弾いていた。それが私が初めてチャーリーを聴いた経験である。そのアルバムはディランのMy Back Pageと他の曲が入っていた。このアルバムを聴いた経験が、それ以降の自分の活動の原点となり、青写真を形成したと思っている。それから次にはオーネット・コールマンのレコードを買った。そうしてどっぷりとジャズの世界にのめり込んでいった。

 その当時の私に「お前はいつかチャーリーやオーネットと一緒に演奏する時が来るよ」と言われたとしても、おそらく信じなかっただろう。絶対にそんなことは起こりえない。冗談に決まってるだろう、と。

 数年後、私は音楽の勉強にボストンに行き、そこでパット・メセニーと会った。パットはポール・モチアンに私のことを話した。そして、ポールから電話が来たのさ。ワオ。パット。どんなに感謝しても感謝しきれないな。パットとチャーリーが一緒に演奏した数々の美しい演奏を思い出してみてよ。オー、マン。

 その後1981年にボストンでポールと初めて一緒に演奏する機会があった。その時はまだチャーリーと会ったことはなかった。ポールは自宅のニューヨークから、チャーリーに譲ってもらったという栗色のシェビー・ノヴァにドラムセットを積み込んでボストンまで運転してきた。彼はいつもチャーリーのことばかり話していた。チャーリーがさぁ、ああやって、こうやってって。ポールはチャーリーの息子ジョシュア、三つ子の娘タニヤ、レイチェル、ペトラのことについても話してくれたよ。余談だけど、私は今ペトラとヨーロッパツアーをしている。家族だね。最終的にポールが私にチャーリーを紹介してくれた。その時ポールのアパートでチャーリー、ポール、カーラ・ブレイ、スティーブ・スラーゲルとジャムったんだけど、あんなに緊張したことはなかったね。憧れのスターたちに囲まれてさ。

 チャーリーと初めてステージに立ったのはリベレーション・ミュージック・オーケストラのギグでマンハッタンの7番街のライブハウスだった。小さいステージでさ。大所帯のバンドが所狭しと陣取ったよ。私はポールとチャーリーの間に挟まれる形になった。左耳はポールのライド(シンバル)から10センチくらい、右耳10センチのところにはチャーリーのアップライトベースの弦。これぞステレオサウンドってもんだろ。どんな音だったか想像できるかい?あれこそ天国そのものだった。そしてデューイ・レッドマンのサックスがたたみ掛けて来るんだ。ワオ!

 それから自分が気づく間もないうちに、リー・コニッツとチャーリー、デビッド・サンボーンとチャーリー、ジョン・スコフィールドとチャーリー、ジンジャー・ベイカー(!!)とチャーリーという具合にレコーディングの機会が増えていった。本当に恵まれていたと思うね。ワオ!

 私は音楽は自分が何を体現できるのか、どのようにしてコミュニケーションを取り、うまく関係性を保つのかという点でパーフェクトなモデルと思っている。ハーモニー、メロディ、リズム、タイミング、テンション、解放、対位旋律、諍い、決意、幸福、悲しみ、不一致、子音韻、ユーモア。

 ユーモアと言えばチャーリーほど素晴らしいユーモアのセンスを持つ男を私は知らない。本当によく笑いあった。喜びそのものさ。彼が到着すると、すぐに場が明るくなるんだ。音もね。他の誰もあんな芸当はできない。過去にも、そして未来永劫と言ってもいい。

 人びとが音楽をカテゴライズすることには本当にうんざりしている。ただのラベルさ。フォーク、ジャズ、カントリー、ヒルビリー、クラシック音楽、ロックなんてね。何でもいいさ。エネルギーの無駄だよ。チャーリーは子供の頃マザー・メイベル・カーター(カントリー歌手)の膝に座り、青年時代にはオーネット・コールマンと演奏していた。彼こそは純粋なる音楽そのものなんだ、完璧にね。彼は音楽なら何でも演奏した。もしチャーリーがこの世にいなかったことを想像しろと言われたら。いや、そんなことは不可能だ。少なくとも自分の世界に彼がいなかったことなんて想像することすらできない。それだけは確かだ。

 ありがとう、チャーリー・ヘイデン。

               愛をこめて。ビル・フリーゼル

まえがき アラン・ブロードベント

 80年代半ばにチャーリーから電話があったことをおぼえている。高速を飛ばしている最中に私の初のトリオ作となるレコードをラジオで聴いたらしく、家に帰ってからラジオ局に電話で確認したら、そのレコードのリーダーが私ということを知ったとのことだった。彼はロスに引っ越したばかりのころ、後に「カルテット・ウェスト」として活動するグループの結成を考えていた。彼は私に連絡してきて、アーニー・ワッツを知っているかと聞いてきたんだ。アーニーとは60年代にバークリー音楽大学で一緒で、卒業後も色々なギグで顔を合わせていた。そういう意味では、彼との関係の始まりは縁起がいいものだったと言ってもいいかもしれない。加えてチャーリーと多くの競演をしてきたドラマー、ローレンス・マーブルとも何度かライブで共演していたしね。

 はなしが急展開に進み、ヨーロッパをチャーリーと回ることになった。ヨーロッパは初めてだったね(アランはニュージーランド出身)そして1987年ころに「チャーリー・ヘイデン・カルテット・ウェスト」を録音した。そこで初めてチャーリーのレコーディング・スタイル、特に彼の創造的なプロセスに対するセンシティビティを知ることになる。そんな体験は初めてで、だいぶ気おくれしたけれどチャーリーはそんな雰囲気を察して、私をリラックスして演奏に集中できるように気遣ってくれた。そのレコーディングで、私の初めての、いわゆるフリージャズになるのだけど、オーネットのLonely Womanの録音に臨んだ。驚いたのは、どんなにメロディーが彷徨ったり、ハーモニーにずれが生じてもチャーリーはいつでも「そこにいる」という感じで、私の旋律を自分が弾くならこうであろうというベースの音で補完してくれたのだ。

 我々ミュージシャンが何かを録音しそれを聴くときには大概自分のパートだけをあぶり出し、他のプレーヤーの音は消して聴くことが多い。チャーリーは違った。彼はバンドとしての音を直ぐ確かめ、バンドの音として良いものを見つけると、必ずポジティブなコメントを発した。そのプロセスが私に自信をお与えてくれ、ほかのプレーヤーの音に耳を傾け心で感じることによって新しい可能性を感じるという目から鱗の体験をしたのだ。

 それがまさにチャーリーの演奏のキモ、すなわち耳のみならず心を開いて演奏をするということが、だ。彼ほど演奏に対して謙遜な人間には会ったことが無い。彼ほどのプレーヤーが、である。一緒にプレーするとき、彼は全身全霊で他の演者に耳を傾けていることを知っているし、そうであることから彼の幅が広く音域ぎりぎりまでのトーンのビートに全幅の信頼を寄せて演奏することができるのだ。そんなことは彼にしかできない。一音一音にそれぞれの最高の音が担保されている。彼の奏でるビートに乗っかって演奏するということは、魔法の絨毯に乗っかっているようなものだ。ちょっとした体の動きで、全体をコントロールできるからね。

チャーリーは、それがジャズであろうとカントリーミュージックであろうとクラシック音楽であろうと、その音楽の中に真実や誠実さを感じ取ることさえできれば、真摯にその音楽に接した。オーネット・コールマンとのレコーディングなどで業界から寵児扱いされても、彼の演奏は常に伝統に基づく地に足のついたものだ。彼からよく若干高い声で「ヘイ、マン」と電話がかかってきて、彼の構想中のアイデアなどを聞かされたことを思い出す。チャーリーは常に新しいものでも古いものでも何かを見つけ出し、仲間と共有するセンスを失うことはなかった。「ヘイ、マン」と高い声で、新たなる発見の道しるべとなる電話がかかってくることがもうないと思うとさびしくてたまらない。

            アラン・ブロードベント

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