
1年前からエチオピアで仕事をし、一時帰国していた仕事仲間から生豆のコーヒーを貰った。アジスアベバの行商から産直ものを仕入れたとのことで、ビニール袋に緑色の生豆が1Kgほどびっしり詰まっている。いわゆる、自主流通のモカ・コーヒーということになるのだろうか。イエメンの港モカから、エチオピア産、イエメン産のコーヒー豆が多く積み出されていることから当地のコーヒーを総じてモカ・コーヒーと呼ばれているとのこと。荒天で釣りに行けなくなったので、コーヒーを焙煎し、飲んでみることとした。

生豆からコーヒーを焙煎し、挽いて飲むというのは初めてだったので、インターネットで色々と調べたところ、家にある道具で一連の作業ができそうだということが分かった。生豆は薄緑色で、表面に薄く蝋が塗られているような見栄え。鼻を近づけてみても、コーヒーの香りは全くせず、無臭である。通常、焙煎は温度管理ができる自動焙煎機や、ビンゴゲームのナンバーボールを回すような鉄網製の手動焙煎機で直火にかけて行うようだが、そのような道具は無いので、料理に使う厚手の鋳鉄製のスキレットで焼くことにした。

スキレットを暖め、豆を投入。しばらくすると、少量の煙が出てきた。過熱途中では豆の色は緑色のままで、うっすら表面に光沢が出てくる。火加減はずっと中火を維持し、木のへらで常に豆を混ぜ続けていると、ある時点から大量の煙が出始める。煙に顔をうずめてみると、香ばしいコーヒーの香りが鼻孔を刺激する。恐らく煙は表面の蝋のようなコーティングと混雑している微量のコーヒーかすなどが焼けて出るものと思われる。大量の煙の発生が収まると、今度は豆が爆ぜる音が聞こえてくる。ぱちぱちという感じで、マッシュルームを炒めるときの音に似ている。その頃になると緑色の豆の表面が薄茶色に変わり、次第に光沢を帯びた茶褐色になっていくのがわかる。香りが立ち始め、部屋が自家焙煎の喫茶店のようにコーヒーの臭いで充満してくる。

深煎りが好みなので、しつこく熱し続け、爆ぜる音が完全になくなったころ合いを見計らって、スキレットを火から下ろした。つやつやとした豆から少しだけ煙が立って、いい香りがする。ネットの指南書に拠れば、十分冷ましてから豆を挽くことが重要とのことで、すぐに挽きたい気持ちを押さえて待つこと1時間。普段は電動オートミルを使用しているのだけれど、生豆から焙煎した初めてのコーヒーということで、久方ぶりに手挽ミルを登場させることにした。ゴリゴリと挽くたびに乾いたコーヒーの香りが立つ。


ここまででも十分手がかかっているのだが、ここまでくれば電気コーヒーメーカーを使うことが憚られる気がしてくる。棚の飾りと化していたサイフォンを持ち出し、アルコールランプにアルコールを補充し、サイフォンに水を入れ、コーヒーをセットする。ここまで来たら、点火はマッチしかない。四ツ谷のイーグルのマッチがあったはずだ。気分はジャズ喫茶のおやじである。マッチでアルコールランプの芯に着火する。ここから冷水が沸点に達するまで10分ほどかかる。

さて、BGMはどうしようか。エチオピアということでEthipiques Vol.4のムラトゥ・アスタトゥケでも聴こうか。いや、待てよ、この間入手した中古盤レコード、MJQのヨーロピアンコンサートなどを聞きながらコーヒーをいただくなんぞ、贅沢な気分に浸ることができそうだ。ターンテーブルにレコードを乗せ、針を落とすとスクラッチノイズがパチパチ聞こえる。ん~、ジャズ喫茶っぽいぞ。普段よりもボリュームを上げて、1960年にストックホルムで録音されたDjangoを聴く。本作品は60年以上前に録音されたものになるが、高音質な盤として評価が高く、豊かな臨場感が楽しめる。ミルト・ジャクソンのヴィブラフォンのリードでメロディを紡ぐと、コニー・ケイのドラムと、パーシー・ヒースのベースが低く流れ、ジョン・ルイスのピアノの和音が被せられる。コーヒーの相棒としては最高の音楽に思えてくる。

こうなってくると、コーヒーカップにもこだわりを見せたくなってくるが、ソーサーの付いた高級なコーヒーカップなどはうちにはない。これは普段使っている、ARABIA社のコーヒーマグを使おう。出張でヘルシンキのIttala社へ取材に行った際に、ビンテージ品フェアをやっており、形が気に入り、重いのに買ってきた愛用品である。定石どおり、お湯を入れてカップを温めておく。

3曲目、I should careが流れ始めるころに、フラスコ内の水が沸騰し、シリンダーに湯が押し上げられ、お湯とコーヒーが接し、香りが立ち始めるのとともに、挽いたコーヒー豆が膨らむのが見える。35年ほど前、通っていた高校の隣にリヒト・コーヒーという豆売りの専門店(2014年閉店)ができ、そこのモカ・ハラー豆を購入して驚嘆したことがある。新鮮な豆だったので、香立ちが良く、フィルターで淹れると、挽いた豆がふわーっと膨らんできた。苦みが勝っている中で、酸味が失われておらず、美味しいコーヒーだったと記憶している。そのコーヒーの味を超えるコーヒーは未だ飲んだことが無い。いま淹れているコーヒーも似たような膨らみ方をしていて、自ずと期待も膨らんでくる。

MJQのヨーロピアンコンサートのA面が終わるころに、フラスコにコーヒーが落ちてきた。レコードをひっくり返し、早速温めたカップにコーヒーを注いで飲んでみる。美味しい。記憶の中のリヒトのモカハラーの味に肉薄するとまではいかないが、苦み走りの中に酸味を感じ、何よりも香りが強く美味しいコーヒーだ。コーヒー生豆の開封から3時間、ようやくありつけた一杯。B面一曲目のクリフォードの思い出を聴きながら、一杯のコーヒーをゆっくり愉しんだ。

コーヒーショップの人々が日々これらの作業の繰り返しを昼夜問わず行っていると思うと、1杯600円も700円もする値段をつけることに納得せざるを得ない。〇タバや〇リーズでは出会うことができない味覚があることは確かだし、職人のコーヒーを淹れる所作やテクニックを眺めているのも、コーヒーを視覚的に楽しむプロセスとして、無駄な時間ではないだろう。あえて、手間がかかることをしてみると、そういう時間が与えてくれる豊かさのようなものを感じる。
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